昭和50年02月14日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは神徳ぢゃ、神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る、みてると言うことはない。」
  
 子孫にも残して置ける程しのものを頂くのですから、あの世までも持って行けると言う事は解ります。例えば親教会の荒巻先生が亡くなられた、そして五十数年間と言う神様の御用をなさった、言わば神様に使われなさった。使われなさったと言う事だけが、徳になっておるのです。私は今日この道しるべと言う本に、神を使うものは行き詰まり、神に使われるものは立ち行くと言う所を頂いた。神を使う者は行き詰まり、神に使われる者は立ち行く。ですから、神様を例えば使う事だけしか、ね。
 例えば神様をお医者代りにしたり、神様を集金人の様に使うたりね、例えばおかげだけを願うと言うのです。それは願いもしなければなりません、けれどもその裏にはです、使われると言う事がなからなければ神に使われる、神様の言うならば手にも足にもならせて頂きますと言う、私は願いがなからなければ行けないと思う。又神様手にも足にも使うて下さいと言うものがなからなきゃいけんと思う。
 只、神様をこくしする、どうぞあヽして下さいこうして下さいと願うだけは、神様をこくしする事になる。そう言う意味で、例えば親先生あたりの場合は、五十数年間神様の御用をなさったんです。だから御用なさった五十何年間を言うだけは、徳になっているわけです。神様に使われなさったんですから、だから神様も決してただ使いはなさらぬ。私は昨日朝から親教会に参っとりました、そして昨日たくさん来ております玉串料の玉串の整理をさせて頂ました。
 鹿児島の先生、北野の先生それに私、それに若先生そすと淵上先生と岸先生と、それだけで兎に角朝から昼まで掛かりましたんですから、その整理をするだけが開けない。只あれを水引を取って、そして帳面に付けるだけが、それだけ掛かったです、もう大変な事です。もうまあ開けはしませんから、是は五十万入っとるばい、これは十万ぢゃろうと言う風に、それ五万十万は沢山あります。
 ほうりゃもう開いたら大した事だろうと思います。中にはこれは五十万ぢゃろうと言った様なのもあります。ですからもうそれは大変な金額をのものを、例えて言うならば親先生は残された訳です。けれどそれは形のものを残されたんです。だからこの形と言うものは、どんなに沢山あったと言うても、それはおぼつかない事です。もう言うならばそれは使えばちびってしまうと言うのです。
 けれどもその形に表れておる所の、お徳は素晴らしいのです。だからそれは残されておっても、後に残る者がそれを受けると言う姿勢を作らなければ、折角のおかげになりません。親先生は五十年間、神様に使われなさった。だから神様は、只使いはせんそのそれがお徳なんです。それだけの言うならば、お徳を残されたんですから、残される程しですから、持って行かれる事は勿論です。
 それなら例えば昨日、私共が整理させて頂いた沢山な数の、その玉串料のと言う是は金額ぢゃない、金だけぢゃないですけれども、それはもう例えばお供えでも、お神酒だってお米だって沢山な事でした。そう言う物は親先生が残された訳です、けどもそれは形の物お米でも食べればおしまいになる、お酒は飲んでしまえば、其れまでの事なんです。だからその根に在る所の物、眼に見えない所の物、それが残された本当の意味に於いての、残された物なんです。
 だから残された物を、私共が頂くと言う事に成る為にはです、それを頂く姿勢を作らなければ、頂けんのです。或る大変なお徳を受けられて、何十と言う出社の出来る程しのお徳を受けられた先生がおられます。その方の息子さんが、すぐ近くに布教されました。所がそこはお父さん、親先生が居られる間は、まあまあでしたけれども、なくなられ途端に、火が消えた様に淋しくなった。そしてもう何十年経ちますけれども、まあようやく教会が維持されておると言う程度の事であります。
 私もあのう隣接教会なら、隣接教会の事何かを、こうお願いさせて貰いますから、その教会の、色々なお知らせを頂いた事があります。その教会のこと、私がお願いさせて頂きよりましたら、お芝居にある二十四孝と言うお芝居があります。そこの教会にはそう言う、親先生の親の徳と言うものが残っているのです。だから親先生の居られる、形の上に現れておるものだけは、もう残っとりますけれども、お広前も親先生が居られる時の、小じんまりとはあるけれども、ちゃんと教会風に新しく教会を建てられた。
 総代も信者もその地区に親先生が分けてやられた。信者まで言うなら、付けてやられたお徳です。けどそう言うのは永く続きしません。私がその教会の事をお願いさせて頂きよりましたら、そう今言うお芝居で二十四孝のお知らせを頂いた。竹の子堀りで有名なお芝居。「この寒中に竹の子の在ろう道理はないけれども、親に孝行すればこそ天の与えであるかも知れんどれ一つ掘って見ようか」と言う名台詞がありますね。
 親が寒中に竹の子が食べたいと言う、この寒中にどうして竹の子がありますかと言わずに、親が言われる事であるからと、裏の竹藪に入って掘らせて頂くと、勿論竹の子はなかった。なかったけれども、自分が探し求めて居った刀が、そこに埋けてあった、と言うのですお徳です。ですから親が言うておられた、親が残して居られる御教えを本気で行ずる気になったらです、その教会の言うなら求めて求めて止まないものが、そこには埋けてある。それが徳なんです。
 私は其の事を言うなら、二十数年前だったから、本当に何か機会があったら、その事を教えて上げたいと思うけれども、とても私共の言う事位は、聞かれる方達ではありませんから、まあー私の心の中に暖めておるだけであって、何か本当に機会があったら、二十数年前にこう言うお知らせを頂いたんですよと、教えて上げたい気が致します。所謂残されたもの、残された程しの事だから、持って行かれる事は勿論である。
 是をなら親先生の場合で言うと、沢山な言うならば恐らく昨夜当りは、お家でまぁ開かれた事だろうと思います。それこそ私共が五六人掛かってから、朝から昼まで掛かる程水引きを抜けて控えるだけで、その位掛かったのですから。それを開いて見られたら沢山の事だろうと思います。それは親先生が残されたものである。米は食べればお終いお酒は飲めばそれまで、お金はそれでは使えば其れまでの事。だから是だけの言うならば形の上の現れた物があるのですからその根と言うものはどの位あるか解らんのです。
 親先生が五十年間神様に使われて、そして使われなさった言うならお徳と言うものはです、是は確かにお道の教師は神様に使われとるとです。自分は気が付かんなりにだから徳を受けとるのです。だからそれが残るのだけれども、それを受けたその次の時代を受け継いだ人はです、それを本当に受けて立たせて貰うと言う姿勢を作らなければいかんのです。親が残して居られた言うならば、教えを本気で守るのです。それは例えば寒中に竹の子を食べたいと言う事かも知れません。
 親が言う事はけれども、親様が言われるのであるから、親が残しておって呉れた教えなのだから。例えば善導寺で言うならばです、初代がこりを積むなこりを積ますな、身を慎め、と教えておられる。だからその事に本気でこう言う事を言いよったら、人がこりを積むだろう、こんな事で自分がこりを積んではならぬ事に、一生懸命精進をされ身を慎んで行かれるならばですそれは難しい事なんです。
 けれども親の言われた事残された事だからと、それを本気で頂く気になればです、目指す竹の子は、親の言うておった竹の子は無いかも知れんけれども、自分自身が求めて止まなかった物が、そこには隠れて居る様なおかげを、私はお徳だと思うのです。親先生は持って行かれた、それは是程しの物を残しておられるのだから、自分が持っておいでられる事は勿論の事、そこで残された者それを受ける者としての姿勢がです、只残された物形の所だけを残して貰うとったと、言う事だけでは余りにも浅い。
 それでは余りにも勿体ない。その根にある所の物眼には見えないその物をです、私共は頂こうと言う姿勢を作らねば行けない。それにはです親の言われる事をそげな事と言わずにです、この寒中にどうして竹の子があるかと言訳をせずにです、親が言われるのであるから、と素直な信心でそれを、竹の子を掘る気持ちにならせて頂いたら、所謂願い求めておった物がそこにあったと言う事になるのです。
 今日は私、親先生が残された物、だから残された程しだから、御自身も持って行かれたに違いないと、私は確信します。そこで残された者は形の所だけを、あヽやっぱり親先生のお徳だなあと言うて、形の所だけを頂いたのであっては、それは使えばなくなるもの。○○教会のそれこそ親の遺された、それこそ大変な大徳を受けられたお父様のお徳が、その教会には一寸ある筈んだけれども、親の言う事を聞こうとしない所にです何十年経っても人も助からん。
 教会自体も助からないと言うた様な結果に終わった様な事ではです、まあその事だけではない、他にも幾らもその例はあろうと思います。本気で受ける気にならねばいけない。それはなら親の言う事を素直に本気で聞かせて貰おうと言う所からです、それはそう言う事がと、所謂寒中に竹の子を求める様な事かも知れませんけれども、そこの所を純粋な、素直な心でハイと言う心でおかげを頂いて行くと言う、信心の姿勢が必要だと言う事になりますですね。
   どうぞ。